取り立てて何があるでもなかった。
すこぶる目立つことがない代わりに埋もれることもなかった。
忙しく留守がちだがよく話しはする父だった。
口煩いが料理上手な母だった。
最近生意気になってきたが妹は可愛かった。
受かった大学は一流でもなけりゃ三流でもなかった。
朝のテレビの占いは中の中だった。
三年間通い慣れた駅のいつものラッシュだった。
空き缶踏んづけた時もたかだか四段程度の階段でどうなるもんでもないと思ってた。
ぐるりと回る視界の中。
『―っテメェ、マジで馬鹿だろうっ!!』
抜けるような青い空と友人の怒鳴り声だけが鮮やかだった。
夢の旅路は晴れた日に
1話 はじめまして、君
「土井せんせぇー、山田せんせぇー」
学園長先生がお呼びだそうでーす、と戸口からぴょっこり顔を出した喜三太の頭を撫でてやって席を立つ。
未だ強い夏の残り火を手で遮って山田が、今度は何の思いつきでしょうなぁ、と呟いた。
「…やはりそう思います?」
「そうでなかったらまた何か問題が起きたんでしょうな。だいだい、あんたと私が呼ばれる時に良いことがあった試しがありました?」
「そうですよね……ああっ、また授業が遅れるっ」
泣きたい思いで学園長の庵に向かい、廊下から、お呼びでしょうかと声をかけると、入りなさいという声が返ってきた。
「失礼しま…す?」
室内の気配は確かに二つあったが、てっきりもう一つはヘムヘムのものだと思っていたら、
「おーおー、ほれ、来たぞ」
学園長の向いに座っていたのは、小さな見なれぬ人影。
誰でしょうかと目で訴えれば、にこにこ笑った学園長はその人物を指し、新入生じゃと言った。
指差された先で振り返ったのは、確かに十歳ほどの子供。ただ妙にその体躯が細いのが気になった。
「ちょっとばかり事情があっての。秋からの入学になってしまったが」
「はぁ、」
土井がぽかん、としたのは無理もない。そもそも基本的に、忍術学園は途中入学はほとんど無い。(タカ丸は例外中の例外だ)
どんな事情かは分からないが、学園長の言い様ではどうやら喜三太のように他の忍術学校からの転入生というわけではないようだし。
それに、自分達が呼ばれたということはこの子をは組に入れるつもりなのだろうが、は組は一年の三クラスのうち現在一番人数が多い。
い組か、ろ組に入れるのが順当なあたりだと思うのだが。
戸惑う土井に、
「は組ならば幸いなことにというかなんというか、授業が大幅に遅れているから、いまからでも追いつけないということはあるまい!」
かか、と笑いながら名案!とばかりに言われて、土井の胃はキリキリと鳴った。
そんなことは全く気にせず、頼んだぞと一方的に言い切ると子供を手招いて、
「こちらが今日からお前の担任になる先生達じゃ。ほれ、挨拶しなさい」
そう言われて、庵に入ってからまだ一度も子供の声を聞いていないことに気がつく。
その子供は無言のままじっと二人の顔を見上げると、ぺこん、と頭を下げた。
「、です」
「実技担当の山田伝蔵だ」
「私は教科担当の土井半助だ」
きっと緊張しているだろう子供を安心させるようににっこり笑いかけてみたが、はにこりともしなかった。
というか表情が乏しすぎる。室内に入った時からちっとも変わらず無表情のままだ。
いつもは表情に富み過ぎるほどにくるくるとよく変わる子供達を相手にしているものだから、慣れない反応に戸惑いを隠せない土井をよそに、では後は頼みましたぞと学園長が言ったので、庵を辞しつつを呼ぶ。
呼ばれた子は自分達にしたようにぺこんと頭を下げると、ちょこちょことどこか危なっかしい足取りで寄ってきた。
近くで見ても、やはりとても細い。
身の丈は普通にあるのに身体の厚みはなく、その細い体躯ではまだ子供体型ゆえに大きい頭が重くてバランスがとり辛いのか、頭を下げれば必要以上に傾ぐし、歩く姿はどうにも不安定だ。
骨格や体質うんぬんではなくあきらかにろくに食べていないためだろう身体の細さ。
やけに白い肌は日にもよくあたっていないようで、お世辞にも忍者に向いているとは言い難い貧弱さだ。
「……まずは食わせて体重を増やして、それから体力を付けなきゃですな」
「…そうですね」
(身の丈は…きり丸と同じくらいだろうか)
思わず頭の中で比べた両者。しかし体重には著しい差があるだろう。
生徒達には平等に接したいと思ってはいるが、戦によって家族を亡くしたという同じ過去を持つきり丸にはどうしても目をかけてしまう自覚はあった。
そのきり丸よりも細く、簡単に壊れてしまいそうな身体に思わず眉が寄るのを感じた。
この子も、過去に何かあったのだろうか?
だからこうも笑わないし話もしないのだろうか?
そう考えると土井はを抱き締めて甘やかしてやりたい、という思いにかられた。
それを鋭く察した山田に、
「生徒には平等に、ですぞ」
「……分かっていますよ」
自分もまだまだ精神修行が足りない、と小さなため息をついた。
すまんが午後から上級生の実技の手伝いがあるので、という山田と途中で別れ、
「ちょうどよかったな、今日は午後は座学なんだ。そこでクラスの皆に紹介しよう。良い子達ばかりだから、きっとすぐに仲良くなれるさ」
「………」
「ああ、それと長屋の部屋を決めなきゃいけないな。おいで」
と手招きする。
とてとて、と寄ってきて横に並ぶと見上げて立ち止まったその背をそっと押して、は組の長屋に向かった。
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